江戸時代中期、吉良上野介(きらこうずけのすけ)を切り付け切腹させられた赤穂藩主浅野長矩(浅野内匠頭)の家臣たちによる「仇討ち」事件、「赤穂事件」(元禄赤穂事件)。忠臣蔵でもよく知られるこの事件で大石良雄(大石内蔵助)ら「赤穂義士」(赤穂浪士)四十七人が討ち入った吉良上野介邸跡が、東京都墨田区両国にあります。吉良邸があった場所の一部に小さな公園が整備され、吉良上野介義央公座像・吉良上野介の首を洗ったとされる井戸・稲荷社などが。
ぜひ最後までご覧ください。
「忠臣蔵」の討ち入り現場 吉良上野介邸跡(本所松坂町公園)
広大な吉良上野介邸があった場所の一部が小さな公園に
JR両国駅から南へ約400m、マンションや小さな商店などが並ぶ街の中に、白壁・なまこ壁で囲まれた場所が。
ここが、「忠臣蔵」でよく知られる「元禄赤穂事件」の現場のひとつ、江戸時代中期 元禄15年12月15日午前4時頃に「赤穂浪士」四十七人が討ち入った「吉良上野介邸」の跡地です。
現在は「本所松坂町公園」という墨田区立の小さな公園として整備されています。
吉良家は「高家」(江戸幕府において儀式典礼を司る役職)で、その格式を表す立派な「なまこ壁」で囲まれているそうですよ。
赤穂義士討ち入りの日は一般的に「12月14日」とされています。
赤穂義士たちは「12月14日の夜に集合し」日付が変わって「15日午前4時頃」に吉良邸に討ち入ったようです。
現在の公園は約100㎡と小さなものですが、この場所にあった吉良邸の広さは、東西七十三間・南北三十五間だったとされています。
「一間」は約1.82mですから、東西約133m×南北64m、約8,500m・2,500坪ほどもある広大なお屋敷だったんですね。
すごい!
サッカーフィールドくらいの大きさだね!
「忠臣蔵」討ち入り現場 吉良邸跡(本所松坂町公園)の中
「忠臣蔵」(元禄赤穂事件)の赤穂義士討ち入りの現場となった吉良邸跡(本所松坂町公園)の中を詳しく見てみます。
吉良邸跡に入ってまず正面に見えるのが、2010(平成22)年12月12日建立の「吉良上野介義央公座像」。
吉良上野介の菩提寺である華蔵寺(愛知県西尾市吉良町)にある座像(吉良上野介が50歳の時に自ら造らせた)をもとに造られたそうです。
なお、吉良上野介が赤穂義士討ち入りにより亡くなったときは 満61歳でした。
吉良上野介義央公座像の横には、「みしるし洗いの井戸」(吉良公御首級洗い井戸)が。
赤穂義士が討ち取った吉良上野介の首を洗ったとされる井戸です。
なお、浅野内匠頭や赤穂義士のお墓がある泉岳寺にも「首洗い井戸」があります。
こちらは、吉良家家臣二十士碑。
赤穂義士による討ち入りで亡くなった、吉良家の家臣である小林平八郎・清水一学ら20人の慰霊碑です。
吉良家側には死者が出た一方で、赤穂義士四十七士側は死者ゼロで わずか2名が負傷しただけ。これは、討ち入り時刻が午前4時頃で吉良邸の家臣たちは寝間着姿、対する赤穂義士は完全武装だったことが大きく影響したようです。
吉良家家臣二十士碑のお隣には、「追慕 吉良上野介義央公 吉良町」と書かれた追慕碑が。
吉良氏の所領だった(吉良という名の由来でもある)愛知県吉良町(現・愛知県西尾市)の有志が建立した碑ですって。
吉良邸跡・本所松坂町公園の一角には、松坂稲荷神社が。
討ち入り後に吉良邸跡の地所清めのため移されてきた「兼春稲荷」と 古くからこの地に祀られていた「上野稲荷」を合祀し、1935(昭和)10年、ここ本所松坂町公園の開園に合わせて遷座されたそうです。
園内には、八重桜も。
また、塀の内側には展示パネルがあります。
吉良邸跡の向かいには「飯澄稲荷神社」が
吉良邸跡・本所松坂町公園の向かいには、「飯澄稲荷神社」が。
吉良邸の屋敷神だと言われている神社だそうです。
吉良邸正門跡・裏門跡・前原伊助宅跡
上でも書きましたように東西約133m×南北64mと広大な吉良邸ですから、「正門」「裏門」跡は、吉良邸跡・本所松坂町公園とは別の場所にあります。また、吉良邸裏門跡から南へ50mほどのところには「前原伊助宅跡」もあります。
各々の門の跡と前原伊助宅跡には、墨田区による案内板が立てられています。
吉良邸跡(本所松坂町公園)を中心に、ちょっとした「忠臣蔵ゆかりの地巡り」をしてみましょう。(3か所とも吉良邸跡・本所松坂町公園から徒歩150m以内)
吉良邸正門跡
吉良邸跡・本所松坂町公園から東へ向かい、突き当りを南へ行ったあたりに「吉良邸正門跡」があります。(吉良邸跡・本所松坂町公園から約70m)
案内板が立っているだけで、遺構のようなものはありません。
討ち入りの際、表門(正門)側と裏門側とに分かれて 吉良邸に侵入した赤穂浪士四十七士。正門(表門)では、まず塀に梯子をかけて内部へ侵入して内側から正門(表門)を開け、赤穂浪士の指導者・大石内蔵助良雄率いる「表門隊」の23人が突入したようです。なお、四十七士のひとり原惣右衛門(原元辰)がこの侵入の際に塀から落ちて足を捻挫。庭で戦っているときに池に落とされて重傷を負った近松勘六(近松行重)とともに、赤穂浪士側の数少ない負傷者(わずか2人)となりました。
吉良邸裏門跡
吉良邸裏門跡は、吉良邸跡・本所松坂町公園から西へ90mほど行って左(南)へ曲がってすぐのところにあります。
こちらも、案内板が立っているだけで、遺構のようなものはありません。
こちらの裏門からは、大石主税良金(大石内蔵助の長男・当時16歳)率いる「裏門隊」(24人)が、木槌で門を破壊して突入したようです。
前原伊助宅跡 (討ち入りの最終集合場所)
吉良邸裏門跡から南へ約50mのところには、「前原伊助宅跡」があります。(案内板のみ・遺構はなし)
前原伊助(前原伊助宗房・1664-1703)は、赤穂義士四十七士のひとり(吉良邸討ち入りでは「裏門隊」所属)。吉良邸裏門からわずか50mほどのこの場所に商店を構え、討ち入りに向けて密かに吉良邸の探索を行ったと言われています。前原伊助は江戸で金奉行(江戸幕府の経理担当)として勤めたことがあり、この経験が「商人なりすまし」に役立ったとか。
なお、前原伊助宅は、吉良邸討ち入り前の赤穂義士たちに最終集合場所だったそうです。
前原伊助は他の赤穂義士たちと同じく吉良邸討ち入りの翌年2月に切腹。主君の浅野内匠頭や他の赤穂義士たちと同じく、「忠臣蔵の聖地」とされる泉岳寺に埋葬されました。
赤穂義士が「休憩しようとした」回向院
吉良邸裏門跡から約200m(正門まで)のところにある、回向院(えこういん)。
1657(明暦3)年の「明暦の大火」の犠牲者の供養のために幕府が建立。明治時代に境内で行われた相撲が現代の大相撲の起源となり、「両国=相撲」イメージのもととなったお寺でもあります。
吉良邸で吉良上野介を討ち取った赤穂浪士四十七士は、君主浅野内匠頭のお墓がある泉岳寺に向かう前に この回向院で休憩しようとしましたが、関わりになるのを恐れた寺側に断られて 休憩できなかったそうです。
刃傷事件までは江戸城前にあった吉良邸
刃傷事件(赤穂藩主・浅野内匠頭に切り付けられる)までは、吉良邸は江戸城「呉服橋」門内(現在の東京駅前・大丸東京店あたり)にあったそうです。
なのに刃傷事件後には、この江戸城すぐのところから、郊外の両国(本所松坂町)へと屋敷を移すように幕府から命じられた。この屋敷移転命令については、「大名屋敷が並んで警備の厳しい呉服橋から 人気のない郊外に移して討ち入りをしやすくするため」というウワサが当時江戸に流れたそうですよ。
「忠臣蔵」の吉良邸跡へのアクセス(最寄り駅:両国)
「忠臣蔵」(元禄赤穂事件)の討ち入り現場・吉良邸跡(本所松坂町公園)は、墨田区両国3丁目「墨田両国三郵便局」の斜め向かいにあります。
JR両国駅東口から南へ約400m
吉良邸跡・本所松坂町公園へは、JR両国駅「東口」から南へ約400mです。
都営大江戸線 両国駅から南西へ約550m
JRの両国駅と都営大江戸線の両国駅は、直結しておらず少し離れています。
都営大江戸線の両国駅から吉良邸跡・本所松坂町公園へは「A5」出口を出て南西へ約550mです。
以上、「忠臣蔵」(元禄赤穂事件)の現場、大石内蔵助ら「赤穂浪士」四十七人が討ち入った「吉良上野介邸」の跡地・本所松坂町公園のお話でした!
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*元禄赤穂事件の詳細については諸説あります