自由民権運動の中心人物で国会開設への道をひらいた、板垣退助。彼のお墓が、東京都品川区北品川・品川神社の社殿裏手にあります。お墓の傍らにはあの有名な言葉を刻んだ碑も。
少々分かりにくい所にありますので、アクセスについても詳しく解説。お参りのお役に立てましたら幸いです。
「国会を創った男」板垣退助
板垣退助は土佐藩出身
板垣退助(いたがきたいすけ・1837-1919)は土佐藩(現在の高知県)の武士の長男として、1837(天保8)年に現在の高知市本町にある高野寺で誕生。幼名「猪之助(いのすけ)」と言った板垣退助は子どもの頃はやんちゃで、後に共に自由民権運動を推進することになる後藤象二郎(ごとうしょうじろう・1838-1897)とケンカばっかりしていたそうです。
板垣家は土佐藩の上士(武士の身分の内の最上位)にしては質素な生活で、板垣退助もあまり物欲がなく、これが後に彼が自由民権運動などに私財を投じることにつながったとも言われています。
板垣退助が生まれた高知市の「高野寺」は、
有名な「ひろめ市場」から南へ200mほどのところ。
「板垣退助先生誕生之地」の碑があるよ。
日本の議会(国会)開設に尽力・後にお札の肖像に
板垣退助は「自由民権運動」の中心人物。政府からの弾圧を受けたり、岐阜で演説中に襲撃され短刀で刺されたり(岐阜事件)するなど紆余曲折ありながらも憲法制定や国会開設への道をひらいた政治家です。なお、この「岐阜事件」のときに発せられたのが、有名な「板垣死すとも自由は死せず」だそうです。
板垣退助は「国会を創った男」とされ、1953(昭和28)年12月1日発行開始のお札(百円札)の肖像にもなりました。
その100円札の裏面には「国会議事堂」が描かれてるんだよね!
板垣退助墓所アクセス ~まずは品川神社へ~
板垣退助のお墓へのアクセスは、まずは「品川神社」へ。
品川神社の最寄り駅は、京浜急行(京急)「新馬場(しんばんば)」駅です。
新馬場駅「北口」を出て北西側を見ると大通り(国道15号・第一京浜)の向こうに品川神社の鳥居が見えます。新馬場駅北口から品川神社正面まで徒歩約100mです。
こちらが、品川神社正面の鳥居。階段を上がって境内へ。
なお、この品川神社の階段の途中に 都内最大の富士塚「品川富士」登山口があります。
板垣退助墓所アクセス ~品川神社境内を進む~
階段を上がってまっすぐ進み、品川神社拝殿の右奥へ。
拝殿の右端に下写真のように案内があります。
小径の突き当りを、案内に従って左折。
さらに突き当たりを右に曲がると…
こちらが、板垣退助墓所の入口です。
品川神社の拝殿横からアクセスするしかない立地ですが、この板垣退助墓所は実は「品川神社の境内」ではありません。
元々ここは板垣退助の菩提寺である「高源院」があった場所。明治中期に「高源院」が無住職状態となり、その後1923(大正12)年には関東大震災により被災。その後復興のため「高源院」は現在の場所・世田谷区北烏山に移転しました。この移転の際、板垣退助墓所はここに残され、現在では高源院の「飛び地」のような存在となっているそうです。
品川区指定史跡・しながわ百景「板垣退助の墓」
板垣退助の墓所は、1978(昭和53)年に品川区の史跡に指定、1987(昭和62)年に「しながわ百景」に選定されています。
ここには1919(大正8)年に83歳で亡くなった板垣退助本人の他、他の板垣家の方のお墓もあります。
こちらが、板垣退助のお墓(写真右)。戒名「邦光院殿賢徳道圓居士」が墓石前面に刻まれています。
お隣のお墓は、板垣退助の妻(第4夫人)で1938(昭和13)年に80歳で亡くなった 板垣絹子さん(順心女学校・現在の学校法人順心広尾学園の創設者)のものです。
板垣退助のお墓のそばには、彼がこの「岐阜事件」のときに発したという、有名な「板垣死すとも自由は死せず」の碑があります。
この石碑は、1968(昭和43)年に「明治維新100年」「板垣退助五十回忌」を機に、板垣退助先生顕彰会が建てたもの。「板垣死すとも自由は死せず」の文字は、当時の内閣総理大臣・佐藤栄作によるものだそうです。
以上、品川神社の社殿裏手にある、「国会を創った男」板垣退助の墓所のお話でした。
最後までご覧いただき ありがとうございます。